クロード・モネ

印象派を代表するフランスの画家であり、光の画家の異名を持つ、時間や季節と同じく移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたって追求した画家がクロード・モネです。彼は印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残しています。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったのですが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けました、もっとも典型的な印象派の画家でした。

ちなみにフルネームはオスカル=クロード・モネという名前だったのですが、本人がオスカルという名前を気に入っていなかったため、一般的にはモネやクロード・モネと呼ばれています。

生い立ち

1840年パリのラフィット街に生まれます。5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住しました。モネは少年の頃から絵画が巧みで、10代後半の頃には自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)等を地元の文具店の店先に置いてもらっていた。1856年から1858年の年記のある素描や戯画が現存しています。1857年にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師でジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子であったフランソワ=シャルル・オシャールに絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いていた戯画が、ル・アーヴルで活躍していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになります。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家でした。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われています。モネの今なお残る最初の油絵は、1858年の年記のある『ルエルの眺め』(埼玉・丸沼芸術の森所蔵、埼玉県立近代美術館寄託)です。この作品はバルビゾン派の影響のみられるもので、地元ル・アーヴルの展覧会に出品されました。

モネは1859年、パリに出て、1860年にアカデミー・シュイスに入学、ここで後に印象派の仲間となるカミーユ・ピサロらと知り合う。1年強のアルジェリアでの兵役を経て、1862年秋、シャルル・グレールのアトリエに入り、ここではシスレー、バジール、ルノワールらと知り合っています。グレール自身はアカデミックな作風の画家でありましたが、彼は生徒に自分の作風を強要せず、自由に個性を伸ばす指導方針であったので、アカデミックな美術教育にあきたらない画家の卵たちが彼のアトリエに集まることになった。

1865年、サロン・ド・パリに2点の作品を初出品し、2点とも入選しました。翌1866年のサロンには、エドゥアール・マネの著名な作品『草上の昼食』(1863年)と同じテーマの作品を出品することを予定していました。モネの『草上の昼食』は縦4メートル、横6メートルを超える大作でありましたが、サロン出品の締切までに制作が追いつかありませんでした。しかし、代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイの道』は、2点とも入選を果たしました。『緑衣の女』は、モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたもので、ベラスケス風の人物画でありますので、当時の審査員の好みに合うものでした。1868年のサロンでは出品した2点のうち1点が入選するも、1869年と1870年のサロンには落選し、以後しばらくサロンへの出品を取りやめる。1867年8月にはカミーユ・ドンシューとの間に長男ジャンが生まれるが、家族はモネとカミーユの仲を認めず、彼らが正式に結婚したのは1870年のことでした。

1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、同年9月頃ロンドンへ赴き、翌年5月まで滞在しました。ロンドンではイギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究しますが、ロンドンで制作した作品は少なく、カタログ・レゾネによれば6点のみです。当時ロンドンに滞在していた著名な画商ポール・デュラン=リュエルともこの時期に知り合っています。モネは1871年5月までロンドンに滞在した後、数か月のオランダ滞在を経て、同年秋にパリに戻り、同年12月、郊外のアルジャントゥイユに転居しました。

都内の絵画教室

ジャポニズムの影響

モネは1876年春の第2回印象派展には18点、1877年春の第3回展には30点、1879年春の第4回展には29点の作品をそれぞれ出品しています。第2回展には日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品していますが、これは、風景画家モネによる人物画の大作として注目されます。なお、カミーユは1879年、32歳の若さで死去しています。1877年初頭には、パリのサン・ラザール駅を題材にした12点の連作を制作し、そのうちの8点が第3回印象派展に出品されました。

また晩年のモネは、ジヴェルニーの自宅への来客を断る事が多かったが、日本人の来客は歓迎したと言われています。ジヴェルニーの自宅に来訪した日本人家族の少女に顔をほころばせるモネの写真が残されています。また、美術収集家である松方幸次郎も作品購入目的で訪れています。若い頃からの日本美術への傾倒が、その訳の一つであったと思われるが、モネの作品が日本に多く在る事と合わせて、モネと日本の結びつきが感じられます。

美術館へいこう

著名な作品

  • 『印象・日の出』(1873)マルモッタン美術館
  • 『キャピュシーヌ大通り』(1873)ネルソン=アトキンス美術館(カンザスシティ)、プーシキン美術館(モスクワ)
  • 『ラ・ジャポネーズ』(1875)(ボストン美術館)
  • 『サン=ラザール駅』の連作(1877)
  • 『サン=ドニ街、1878年6月30日の祭日』(1878)ルーアン美術館
  • 『積みわら』の連作(1888 - 1891)
  • 『ポプラ並木』の連作(1891)
  • 『ルーアン大聖堂』の連作(1892~1894)
  • 『睡蓮』の連作(1899 - )

芸術とデザイン、日本とジャポニズム!

かつて、日本の芸術は、浮世絵や琳派だけでなく、扇子や茶碗といったものまでが、様々な国に渡り、偉大な巨匠達の作品に影響を与えていきました。これを大まかにジャポニズム(日本趣味)と言いますが、今や日本のカルチャーは、そういった昔のものに限られず、日本的な要素を持つものが、必ずしもアートでないものにも用いられるようになっていっています。このサイトではそんな「今現在のネオ・ジャポニズム」と「かつてあったジャポニズム」について解説していきます。

通信で学ぶ芸術

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