ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホは最もジャポニズムに影響を受けていたと言われている画家の一人で、大胆な色使いや、率直な感情の表現を重視した、ポスト印象派で知られる代表的な画家の一人となっています。その後のフォーヴィスムや、ドイツ表現主義などといった20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした人物の一人です。ちなみに彼自身は多くの人が語っている通り、生前はあまり評価されず、作品自体もたったの一つしか売れたことがありませんでした。

生い立ち

ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くものの、1876年、商会を解雇されました。その後イギリスで教師として労働したり、オランダのドルトレヒトの書店で労働したりするうちに聖職者を志すようになっていき、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折しました。1878年末、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活躍を行うと、画家を目指すことを決意し、オランダのエッテン、ハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り、弟テオドルスの援助を受けながら画作を続けました。いわゆる現代で言うニートです。また彼のオランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主要作品となっています。

1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになりました。この時期の作品としては「タンギー爺さん」等が知られます。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っています。1888年2月、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」等の名作を次々に生み出しました。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に二人の関係は行き詰まり、12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は終焉しました。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミの精神病院に入院しました。発作の合間にも「星月夜」等殆どの風景画、人物画を描き続けた。1890年5月、精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り画作を続けたが、7月27日、自ら銃を撃ち、29日死亡しました。もっとも、自殺という一般の理解に対しては異説もある因については、てんかん、統合失調症等様々な仮説が研究者によって発表されています。

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ジャポニズムとの出会い

ゴッホはパリ時代に多数の浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残しています。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する動向で、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況がありました。その中でもゴッホやゴーギャンのケースは、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点があり、ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いていますが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていたのです。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィズムの系譜に属するものといえる一方、造形的な面においては、ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」等に独特の遠近法を応用していたりします。1888年9月の「夜のカフェ」では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の「アルルの寝室」では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられる等、立体感が排除され、奥行きが減退しています。

単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとした手法は、クロー平野を描いた安定感のある「収穫」等の作品に結実しました。しかし、同じアルル時代の1888年夏より後は、後述の補色の使用と同じく荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっています。ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及しています。また図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはゴッホの作品の特性である。

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独特の色相理論も魅力

ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論でした。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果があります。ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになりました。例示すると、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」手を目指したと書いたり、「夜のカフェ」において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」手と考えたりしている。同じアルル時代の「夜のカフェテラス」では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。

サン=レミ時代には、さらにバロック的動向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれると同じく、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現されます。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景等に見られる)という二つの手法が使われています。色彩の面では、補色なんかよりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている。タッチに無駄がなくなり、キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになっていきます。

芸術とデザイン、日本とジャポニズム!

かつて、日本の芸術は、浮世絵や琳派だけでなく、扇子や茶碗といったものまでが、様々な国に渡り、偉大な巨匠達の作品に影響を与えていきました。これを大まかにジャポニズム(日本趣味)と言いますが、今や日本のカルチャーは、そういった昔のものに限られず、日本的な要素を持つものが、必ずしもアートでないものにも用いられるようになっていっています。このサイトではそんな「今現在のネオ・ジャポニズム」と「かつてあったジャポニズム」について解説していきます。

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