グスタフ・クリムト

帝政オーストリアの画家であるグスタフ・クリムトもジャポニズムの影響を受けた画家として有名です。特に彼は浮世絵といった物よりも、琳派という一種の大和絵の流派に興味を持ち、影響されていた用で、特に黄金の時代と呼ばれている彼の作品の多くは、この琳派のジャポニズムに大きな影響を受けた作品が多くなっています。

生い立ち

彼、グスタフ・クリムトはウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)に1862年に生まれました。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーン出身であり、クリムトは7人兄弟の第二子となっておりました。ウィーン7区の小学校で学んだ後に、博物館付属工芸学校に入学すると、後に弟のエルンストとゲオルクもこの学校で学び、それぞれ彫刻師、彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっています。またこの工芸学校でクリムトは石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けることになりました。

1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチと共に共同で美術やデザインの請負を始めます。ウィーンの美術史美術館の装飾の仕事等を行い卒業後に三人は芸術家商会を設置しました。これは劇場の装飾を中心とした物で、この仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメ、ブカレスト等へも派遣されるようになりました。1886年から1888年まではウィーンのブルク劇場の装飾を引き受けていて、この功によって後に金功労十字賞を授与されています。

ウィーン市からの依頼を受け1888年に製作することになった『旧ブルク劇場の観客席』は、観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうける等高く評価される作品になっています。この作品によりウィーン美術界における名声を確立したクリムトですが、1891年にウィーン美術家組合に入って1893年に早くも美術アカデミー教授への推薦をうけていたのにもかかわらず、結局は任命される事はありませんでした。翌1892年には父と弟のエルンストが死去しています。

そんな装飾家として名声を得ていたクリムトですが、1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼されます。『学部の絵』と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』、『法学』の3部からなるもので、人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反して、この三作品は理性の優越性を否定する寓意に満ちたものになっていて、その是非をめぐって大論争を引き起こしました。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展しました。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却しました。美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により、没収された他の作品と共に焼失しています。

この事件をきっかけとして保守的なウィーン美術家組合を嫌った芸術家達によって1897年にウィーン分離派が結成されました。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループでありますので、クリムトが初代会長を務めています。分離派は展覧会、出版等を通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たしました。

後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作等を行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけました。1910年代には作品も少なくなり、金箔等を用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎(スペインかぜの症状悪化により発病)により死去しました。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されています。

またクリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったといいます。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、殆どのモデルと愛人関係にあって、非嫡出子の存在も多数判明しています。著名な愛人はエミーリエ・フレーゲで、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」でした。エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙を全て処分し生涯独身を貫いています。

都内の絵画教室

作品の特徴

比較的彼の作品のモチーフとして多いのは、女性の裸体、妊婦、セックス等、赤裸々で官能的なテーマです。甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)作品が多く、また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマになっています。『接吻』に象徴される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出しています。これは日本の琳派の影響も指摘されており、実際にその特徴を多く受け継いでいます。

またクリムトはかなりの数の風景画も残しています。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いており、正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものが多くなっています。

代表作

  • 『音楽』 - (1895年、ノイエ・ピナコテーク)
  • 『パラス・アテナ』 - (1898年)
  • 『ユディトI』 - (1901年、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館)
  • 『ベートーヴェン・フリーズ』 - (1901年 - 1902年、セセッション館)
  • 『人生は戦いなり(黄金の騎士)』 - 日本の美術館が所蔵する数少ないクリムトの絵画の1つ。トヨタ自動車の寄付金により約17.7億円で購入(1903年、愛知県美術館)
  • 『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』 - 哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの姉 (1905年、ノイエ・ピナコテーク)
  • 『生命の樹』 - (1905年 - 1909年、ストックレー邸のフリーズ)
  • 『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』 - (1907年、個人蔵。2006年、絵画として当時の最高値の156億円で売却。ノイエ・ギャラリー(ニューヨーク)に展示されている)
  • 『接吻』 - (1907年 - 1908年、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館)
  • 『ダナエ』 - (1907年 - 1908年、個人蔵)
  • 『オイゲニア・プリマフェージの肖像』- 日本の美術館が所蔵する数少ないクリムトの絵画の1つ。トヨタ自動車の寄付金により約18億円で購入(1913年 - 1914年、豊田市美術館)
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芸術とデザイン、日本とジャポニズム!

かつて、日本の芸術は、浮世絵や琳派だけでなく、扇子や茶碗といったものまでが、様々な国に渡り、偉大な巨匠達の作品に影響を与えていきました。これを大まかにジャポニズム(日本趣味)と言いますが、今や日本のカルチャーは、そういった昔のものに限られず、日本的な要素を持つものが、必ずしもアートでないものにも用いられるようになっていっています。このサイトではそんな「今現在のネオ・ジャポニズム」と「かつてあったジャポニズム」について解説していきます。

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