ジャポニズムとは?

ジャポニスムというものについて改めて、詳しく説明していきます。このジャポニスムまたは、ジャポニズムというものは、ヨーロッパで見られた日本趣味のことを指す言葉になってはいますが、そのメインとなる場所はフランスだったのです。ですので、フランス語読みであるジャポニスムの方が海外では一般的に使われているように感じます。

このジャポニスムは19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ出品等をきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品等)が注目され始めることによって、スタートしています。また、日本の浮世絵という物が版画であったという事もあり、海外へ大量に作品を送り出せるという側面もあったことから、それは単なる芸術家の中だけにあるものだけでなく、一般的な層(といっても裕福な層)へもこの日本趣味というものは広がっていったのです。そうしたものは1870年の段階でフランス美術界において異常なほどの影響を誇っていたため、1876年には「japonisme」という言葉が、フランス語の辞書に登場するまでになっていっていたのです。

その影響の度合い

特にこのジャポニズムは、色彩面と構図面、そして写実性という概念から離れたところにあるというところで高い評価を受けていました。特に印象派と呼ばれる画家達には、色彩面でかなりの影響を与えており、たとえばゴッホによる『名所江戸百景』の模写やクロード・モネの着物といった作品がその中では有名になっています。またこれまでは、一般的に女性を描くとなると、聖女だったり、また有名な人物を描くことがほとんどで、ある種宮廷画家のような側面を持っている事が芸術家としては一般的な物だったのですが、庶民の女性や、街の中にいるありふれた女性をモデルにして、自由に描いても良いというそのスタイルを、決定的に明示したというところも、このジャポニズムの影響だと言われています。

また影響の度合いが非常に大きく、なんとこのジャポニズムという物はおおよそ確立から30年もの間、隆盛を誇っていきます。ジャポニスムは、たんなる一時的な流行に終わず、14世紀より後になっても、西欧では何度か大きな変革を起こしているのです。特に西洋近代を告げるルネサンスにおいて自然回帰運動が起き、写実性を求める動きが次第に強まり、19世紀中頃にクールベらによって名実ともに写実主義が定着しました。19世紀後半からは写実主義が衰え、印象主義を経てモダニズムに至る変革が起きました。この大きな変革の段階で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニスムであったと考えられているのです。このジャポニスムは流行にとどまらず、それより後の1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となったのです。

またこれは当時から必ずしも芸術の分野だけに限定して影響を与えていたわけでは無く、たとえば、ルイ・ヴィトンのダミエキャンバスやモノグラム・キャンバスといったものも、この当時のゴシック趣味や、アール・ヌーヴォーと言った物の影響以外にも、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされているのです。

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ジャポニズムの歴史

ジャポネズリーの誕生

この段階の有名的な作品はフランスの画家ジェームズ・ティソによって描かれた作品で、屏風を眺める婦人が描かれています。この時代ではまだまだジャポニズムとは呼ばれておらず、ジャポネズリー(Japonaiserie)つまり、完全な趣味としての、日本趣味として取り扱われております。ジャポニズムの前段階として有った物と、今の時代では解釈されております。

これは具体的には、嘉永年間、黒船来航により様々な商船が西洋から押し寄せたことにより、当時の写真技術と印刷技術が伝わり、日本の様子が西洋に広く知られるようになったことが始まりとしてあります。他の美術工芸品と同じく浮世絵という版画が欧米でまたたく間に話題になったこともありました。

特にこのジャポニスムの第一段階は日本の美術品、特に浮世絵版画の熱狂的な収集から始まりをみせます。その最初の例はフランスのパリで、1856年ごろ、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で『北斎漫画』を目にし、これを1860年から1861年にかけて出版された日本に関しての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されているのです。

この流れを汲んで、1862年には、ラ・ポルト・シノワーズ(「中国の門」、La Porte Chinoise)という浮世絵を含むいろいろな日本製品を売る店がリヴォリ通りというパリで最もおしゃれな商店街に開店しました。

1871年には、カミーユ・サン=サーンスが作曲し、ルイ・ガレが台本を書いたオペラ『ラ・プランセス・ジョーヌ』(『黄色人の王女』、La Princesse jaune)が公開されたが、その物語はオランダ人の少女が芸術家のボーイフレンドが熱中している浮世絵に嫉妬するというものでした。

ブラックモンによる浮世絵の古典的名作の最初の発見にもかかわらず、当初ヨーロッパに輸入された大半の浮世絵は、同時代である1860〜1870年代の絵師によるものでした。それ以前の巨匠たちが紹介され、評価されるのはもう少しあとのことになります。

イギリスにおける日本趣味

イギリスでは、1862年のロンドン万国博覧会により、日本の陶器や置物等日本文化への関心が高まりました。美術界では、ロセッティ・サークル(画家のロセッティを中心としたラファエル前派のグループ)の人々を中心に日本熱が起こり、明治になると日本の軽業師が多数海外で興行するようになり、イギリスでも1870年代にはすでに手品や曲芸を見せる興行が打たれていました。

1885年にはロンドンのナイツブリッジにジャパニーズ・ヴィレッジ(日本村)と呼称される日本の物品を販売したり見世物をしたりする小屋ができ、同じころサヴォイ劇場では、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによるオペレッタ『ミカド』が大当たりを取っていた。また、リバティは日本風デザインの布地や家具を販売し始め、女性誌では日本風を取り入れた新しいドレスが誌面を飾るようになりました。

ジャポネズリーからジャポニスムへ

これらの市井での影響は画家にとっても切り分けることの出来ない物で、特にエドゥアール・マネ『エミール・ゾラの肖像』はジャポネズリーのメジャーなものであると考えられます。この作品はマネ自身の日本趣味を表しており『エミール・ゾラの肖像』は、マネのアトリエで描かれた作品で、画中の日本の絵画もマネのコレクションとなっています。

この作品そのものには日本の絵画の表現方法が顕著に取込まれているわけではなく、フィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』も同様の感覚によるものであるとも考えられます。要するに、ジャポニズムとして有る物では無く、ジャポネズリーとして有った物というわけです。

次第に葛飾北斎や喜多川歌麿を含む日本の画家の作品が海外へと渡るようになると、これはヨーロッパにて絶大な影響を与えました。日本では文明開化が起こり、浮世絵等の出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受け、そんな日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナール、マネ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、クロード・モネ、ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、グスタフ・クリムトその他多数いるほどです。

ありとあまねく分野が影響を受けましたが、当然、版画が特に影響を受けました。ヨーロッパでメインだったのはリトグラフであり、木版画ではなかったが、日本の影響を抜きにして、ロートレックのリトグラフやポスターについて語ること等考えられません。木版画によるジャポニスムの作品が作られるようになるのは、モノクロではあったものの、ゴーギャンとフェリックス・ヴァロットンが最初となってます。

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浮世絵が与えた影響

実際に浮世絵が与えた影響は、単なるジャポニズムに収まりません。

そもそも浮世絵は線で構成されていて、何も無い空間と図柄のある部分に輪郭線がくっきりと分かれ、立体感はほとんど無いというもので、これらの特性はアール・ヌーボーに影響を与えています。浮世絵の直線と曲線による表現方法は、その後、世界中の全ての分野の絵画、グラフィックで当たり前のように見ることができるようになりました。これらの浮世絵から取り入れられた形状と色彩構成は、現代アートにおける抽象表現の成立要素のひとつと考えられます。ジャポニスムによって、その後の家具や衣料から宝石に到るまであまねく工芸品のグラフィックデザインに、日本的な要素が取り入れられるようになりました。

音楽に関しては、ジャコモ・プッチーニの有名な『蝶々夫人』がジャポニスムの影響を受けています。また、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによるオペレッタ『ミカド』は、ロンドンのナイツブリッジで行われた日本の展示会から着想を得たものでした。

芸術とデザイン、日本とジャポニズム!

かつて、日本の芸術は、浮世絵や琳派だけでなく、扇子や茶碗といったものまでが、様々な国に渡り、偉大な巨匠達の作品に影響を与えていきました。これを大まかにジャポニズム(日本趣味)と言いますが、今や日本のカルチャーは、そういった昔のものに限られず、日本的な要素を持つものが、必ずしもアートでないものにも用いられるようになっていっています。このサイトではそんな「今現在のネオ・ジャポニズム」と「かつてあったジャポニズム」について解説していきます。

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