葛飾北斎

浮世絵を語る上で欠かせない人物が、この葛飾 北斎です。江戸後期の浮世絵師で、化政文化を代表する人物の一人となっております。また、海外での影響力もすさまじい物があり、特に北斎の残した『富岳三十六景』などは有名で、アンリーリヴィエールの「エッフェル塔三十六景」のように、そのまんま国だけ別になっているという作品まであるようになっています。

基本的にありとあらゆるものを描いてきた北斎ですが、生涯に3万点を超える作品を発表し、若いときから意欲的で、版画以外にも、肉筆浮世絵などにも傑出していました。しかし、北斎の絵師としての地位は、『富岳三十六景』によって、不動の物となりましたし、国内外含めて、風景画という物に新しい局面を作り出したという功績があります。

また、彼の業績は浮世絵の中ではまさしく最高峰とも言える物ではあったのですが、実のところあまり裕福とは言えないようで板。しかし、そのたぐいまれなる描写力や、速筆に関しては北斎漫画の中にも見ることができます。

また、かれは読本、挿絵芸術などといった新機軸を見いだしただけで無く、北斎漫画などを始めに数多くの絵本を発表したこともあり、毛筆による形態描出に関しては右に出る物がいないかと思います。また、これらの芸術を庶民化していくことによって、庶民の中で芸術というものが比較的ありふれた物なのだという意識が生まれるようになっていきました。

その後葛飾派の祖となりって、後に、フィンセント・ファン・ゴッホ等の印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている北斎ですが、シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなって、難を逃れています。

その意見ありとあまねくものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようです。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせませんでした。アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、1999年には日本人として唯一86位にランクインしました。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれます。

都内の絵画教室

北斎の逸話

改名しすぎの北斎

彼は生涯に30回と頻繁に改号していました。使用した号は「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」等と、それらの組み合わせです。ちなみに北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号で、それ以外の「画狂人」等は副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしています。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。

ちなみに現在多くの人に知られている「北斎」も当初名乗っていた「北斎辰政」の略称となっており、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいるそうです。他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」等というかたちで使われていたことによる。

なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを所得の一手段としていたため、という説と北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説があります。また、この一番有名な「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲ってるのです。

引っ越しすぎの北斎

北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名です。一日に3回引っ越したこともあるといいます。75歳の時には既に56回に達していたらしく、当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されていて、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人です。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もあります。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想しています。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをしました。

最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことです。

食事

料理は買ってきたり、もらったりして自分では作りませんでした。居酒屋の隣に住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもありません。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置しました。土瓶と茶碗2,3はもっていましたが、自分で茶を入れません。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れません。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出しました。

ここまで乱れた生活を送りながらも彼が長命だった訳として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説があります。

また、斎藤月岑によれば、この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、といいます。

貧しかった理由

北斎は金銭に無頓着でした。北斎の画工料は通常の倍(金一分)を得ていましたが、赤貧で衣服にも不自由していたそうです。しかし金を貯える気は見られません。画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡しました。店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという形でした。このようないいかげんな金銭の扱いが貧しさの一因だったそうです。

シーボルトともめる

長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼しました。

そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼しました。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給でありますので、同じようには謝礼できません。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「何故最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところですが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきたそうです。

当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れません。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めたのですが、北斎はじっとしばらく黙っていたものの「自分も困窮するのはわかっています。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになります。」と答えたのでした。

通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があって、本国に輸出されました。しかし、シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになったそうです。

美術館へいこう

挿絵画家の一面

浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。黄表紙や洒落本・読本等殆どの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していました。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』等の作品を発表し、馬琴と同じくその名を一躍不動のものとしました。読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われています。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある。

武士とのトラブル

津軽藩主が屏風絵を依頼し、使者が何度も北斎を招いたがいっこうに赴こうとしありませんでした。10日ほどしてついに藩士が北斎宅までやってきて、「わずかばかりではありますが」と5両を贈って藩邸への同行をうながし「屏風が殿のお気に召せば若干の褒美もありましょう」と言葉を添えたが、北斎は用事があると応えて行かありませんでした。数日してまた藩士が訪問し再度同行を促したが、また北斎は断った。とうとう藩士は憤慨し「この場で切り捨てて、私も自害します。」と怒り出してしまうが、集まった人々が藩士をなだめ、北斎に出向くよう勧める等と大騒ぎになった。それでも頑として拒否し続ける北斎は「じゃ前にもらった5両返せばいいんだろう。明日金を藩邸に送りつけてやる。」と言い出したので、藩士も人々もあきれはててしまったが、その日はなんとか収まった。

数カ月後、招かれないのに唐突に津軽藩邸に現れ、屏風一双を仕上げて帰った。常に貧しく不作法な北斎でありましたが、気位の高さは王侯にも負けず、富や権力でも動かないことがありました。

歌舞伎役者とのトラブル

幽霊役で人気だった歌舞伎役者の尾上梅幸(尾上菊五郎 (3代目))が北斎に画を依頼したことがありました。ところが招いても北斎がぜんぜん来ないため、有名人らしく輿に乗って北斎宅に訪問しました。もともと貧しい家で、掃除もしたことのない荒れ果てた室内は不潔極まりなく、おどろいて毛氈(敷物)を引かせた後入室し着座。一礼しようとしたと北斎は「失礼だ」と怒り出し、机に向かって相手もしようとしなくなった。ついに梅幸も怒って帰ってしまった。

後日梅幸が非礼を詫びると二人は親しくなった。普段の北斎は横柄という事はなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物でした。

芸術とデザイン、日本とジャポニズム!

かつて、日本の芸術は、浮世絵や琳派だけでなく、扇子や茶碗といったものまでが、様々な国に渡り、偉大な巨匠達の作品に影響を与えていきました。これを大まかにジャポニズム(日本趣味)と言いますが、今や日本のカルチャーは、そういった昔のものに限られず、日本的な要素を持つものが、必ずしもアートでないものにも用いられるようになっていっています。このサイトではそんな「今現在のネオ・ジャポニズム」と「かつてあったジャポニズム」について解説していきます。

通信で学ぶ芸術

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